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ムエタイ

 

ムエタイの歴史

エタイとはタイの国技である。
ムエタイの歴史は長江文明より始まる。
ムエタイの起源は「相撲」にある。

(ムエタイプラザ・ムエタイ史研究チーム報告書による)

 「ムエタイ史研究チーム報告書/2004年度版」
紀元前4000年ころ、中国の黄河流域に今のタイ人の祖先にあたるタイ族が住んでいた。
紀元前2500年ころから、殷・周の建国を受けて南下、春秋戦国時代(紀元前770年〜紀元前221年)には、長江流域・浙江省からベトナムにかけて居住する多民族の総称、「百越の民」(タイ族はその中のひとつ「駱越」)と呼ばれていた。
「百越の民」は、初期において稲作を中心に農耕文化を築き、やがて漁業・青銅器・鉄器・陶磁器・絹織物・漆工芸・海上交易など多様に発展し、東洋、東南アジアにも影響する長江文明となった。
農業、漁業は自然現象の影響を受ける。「百越の民」にとって、太陽・鳥・蛇・精霊などを信仰の対象とする、自然崇拝はごく当然の観念であった。
この長江文明の中、原始的な力くらべから発生した「相撲」(角力、角抵)は、軍事的な格闘術、占いや祈願のためにも行われるようになった。農耕文明において、お尻は多産、土は豊作を意味する。平時において、お尻に土を付け合う「相撲」は子孫繁栄や豊穣を祈願する神聖な儀式となったのである。
古代の「相撲」は地域によって、蹴り、拳、ヒジ、ヒザによる攻撃が認められていた。垂仁天皇(紀元前69年〜?)による日本初の天覧相撲は、野見宿禰(のみのすくね)が蹴りで、當麻蹶速(とうまのけはや)のあばら骨を折り、腰骨を踏み砕き、殺害して勝ったことが相撲神社(奈良県桜井市)に伝えられている。ちなみに負けた力士の名、「蹶速(けはや)」とは、「蹴りが速い」の意味である。
また、古代の「相撲」が、試合の前や最中に楽器や太鼓を鳴らすこと、決められた一連の作法、神聖な小道具の使用、祭りや行事での試合、というような儀式的要素が多いのは、自然崇拝から始まった神事だからに他ならない。
こうした古代の「相撲」は稲作と同様に多くの民族へ広まった。ルールは違うが、日本の「大相撲」、韓国の「シルム相撲」、中国の「シュアイジュアオ」、「沖縄相撲」、「モンゴル相撲」、「ベトナム相撲」、そして「ムエタイ」などに、その神事的儀式のなごりは今でも見ることができる。
現在、「ムエタイ」の選手は試合前に神聖な「ワイクルー」を踊る。その踊りには、太陽を崇める舞、鳥や蛇を真似た舞、そして腕や頭には精霊が宿るお守り「モンコン」、「プラチアット」の着用など、自然崇拝のなごりが見つけられる。また、勝敗の判定基準で、殴り合いよりも「首相撲」で優位だった方が勝つという外国人にはわかりづらいルールも、原点は「力くらべ」から発生した「相撲」の一つとして「ムエタイ」をとらえれば、容易に理解できる。日本の「大相撲」に例えれば、横綱に「立ち合いの変化」よりも「がっぷり四つ」を求めるようなものである。つまり、現在の「ムエタイ」は、西洋の「ボクシング」と蹴りの格闘技ではなく、古代の「相撲」にグローブを着けた格闘技なのである。しかし、その本来の神事的儀式の部分は、仏教の影響により影を潜めている。
紀元前100年ころ、シルクロードが開通され、インドよりカラコルム山脈やタクラマカン砂漠を越えて仏教が伝来するようになった。
495年、跋陀というインド僧侶を擁護するため、北魏・孝文帝の命により河南省・嵩山に少林寺が建立された。跋陀には、僧稠と慧光という弟子がいた。この2人は、少林寺で武術の鍛錬、指導にも従事した。ここで古代の「相撲」にインド武術(カラリパヤット)が融合され、「少林拳」(カンフー)が誕生した。いうなれば、古代の「相撲」に技術革命が起きたのである。体の各部位を駆使した「打・突・蹴・掴・投・極・絞」の格闘技術、棒術、剣術など、いずれも当時としては実戦的かつ最新鋭の戦闘技術へと進歩した。
ちなみにダルマさんで有名な菩提達磨は575年に少林寺を訪れ、9年間座禅したのち「禅」を確立した。この時、少林寺は建立から80年以上を経て「少林拳」はすでに完成をみており、菩提達磨は禅修業の一環として体を鍛えるため、弟子達に「少林拳」を奨励した。
李世民の唐(618年〜907年)建国に際し、少林寺の僧・曇京、志操を筆頭に「少林拳」を修得した13人の僧侶が活躍した。この功績によって、少林寺は唐から優遇措置を受け、また一方、「少林拳」は各地に広まり多くの拳法の基礎となった。もちろん、中国大陸の南部にいた「百越の民」にも「少林拳」は吸収され、民族ごとにその格闘形態を変えていった。タイ人の祖先も同様であり、「ムエタイ」の原型である「古式ムエタイ」の始まりとなる。また、ミャンマー人の祖先においては、「ラウェイ」(「ムエカッチュ―ア」)の始まりとなる。「ラ」は拳、「ウェイ」は闘い、という意味である。
「少林拳」は中国大陸内のみでなく、海を渡り琉球(沖縄)へも伝わり、唐の格闘武術であるため「唐手」(からて)と呼ばれるようになった。昭和10年、「唐手」は、船越義珍氏によって、「唐」を「空」へと改字され「空手」となった。この字は、「禅」の境地「色即是空、空即是色」の「空」に由来する。また、「少林寺拳法」は昭和22年に日本で創出された格闘技である(大阪地裁・昭和48(ワ)1491不正競争、民事訴訟参考)。
秦(紀元前221年〜紀元前202年)の建国の頃より、「百越の民」はさらに南下を余儀なくされる。以降、前漢・後漢(紀元前202年〜220年)、三国時代(220年〜265年)、西晋(265年〜316年)、南北朝時代(316年〜589年)、隋(589年〜618年)、唐(618年〜907年)、五代十国時代(907年〜960年)、北宋(960年〜1127年)、南宋(1127年〜1271年)と、戦乱と政権交代に翻弄されながら、「百越の民」は徐々に南の辺境地域へ移住し、南詔国(657年〜902年)、大理国(937年〜1253年)、南天国(1041年〜1055年)などを建国した。しかし、南詔国は権力抗争によって、大理国はフビライハンが派遣したウリャンハダイによって、南天国は宋と李朝によって滅ぼされた。その後「百越の民」は、タイ、インド・アッサム地方、ミャンマー、ラオス、ベトナム、インドシナなどへ分散し、各地で根付いていった。
1193年、タイ人の祖先は南下の末、現在のタイ・チェンライ地方に到達する。彼らは、長江文明ゆずりの優れた稲作技術と「古式ムエタイ」(「少林拳」を取り入れた戦闘技術)を持っているため、まさにアメとムチの外交政策で先住民との交渉に当たりつつ、スリランカ系大寺派上座部仏教の威光の下、1238年にスコータイ王朝、1350年にアユタヤ王朝を建てた。
しかし、これらの王朝は絶えずミャンマーからの侵略に対抗する必要があった。そのため、剣(クラビ)、棒(グラボーン)、「古式ムエタイ」は実戦格闘技として、軍隊のみでなく王や王子、世間一般でも訓練が積み重ねられた。
しばしば特筆されるのが、ナレースワン大王(ムエタイを使ってミャンマーとの独立戦争に勝利)、スア王(身分を隠してムエタイの試合に出場し、各地方の強者に勝利)、ナイ・カノム・トム(ミャンマー軍の捕虜になったが、ミャンマー王の御前試合で10人勝ち抜き、約束としてアユタヤに帰還)の3人である。
子供たちの訓練の場は仏教寺院であった。当時、読み書き算数などは仏教寺院で行われ、「古式ムエタイ」は護身術として少年教育に加えられた。こうして、「古式ムエタイ」はタイが経験してきた戦争の歴史の中で次第に改良と洗練がなされ、また厚く信仰される仏教とも結び付き、タイ人が誇る「ムエタイ」(「ムエ」は格闘技、「タイ」はタイの国)となったのである。
チャクリ―王朝に入ってから、「ムエタイ」は決闘やギャンブルとして加熱し、死人が続出するほど危険な格闘技になったため一時禁止令が出た。1921年、ラマ6世が、第一次世界大戦の軍資金集めの興行として「ムエタイ」を公に再開した。この時の試合から、ボクシングリングが導入された。1929年、拳にグローブの着用がルール化され、ほぼ現在の形式になった。同年、陸軍(警察)系の「ルンピニー・スタジアム」が設立され、1945年に王室系の「ラジャダムヌン・スタジアム」が設立された。選手は賞金を得るため、観客はギャンブルの手段として、「ムエタイ」に少なからず生活を掛けている。
幾多の時代を超え、「ムエタイ」は今日も実戦かつ神聖な格闘技として続いている。

 

番外編ムエタイプラザ神話


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